ハンナ・アーレント『人間の条件』(1958)

 ハードディスクの中身を整理していたら、十数年前に書いた感想文が出てきた。よい機会(?)なのでブログに載せてしまおう。乞う御高評。

 久しぶりに、スリリングで目の醒めるような読書体験であった。いまさら60年近く前の著作を読んで目が醒めているようでは世話もないが、どうにも仕方がない。今まで政治学になど、興味も何もなかったのだから。
 この、政治学の古典的名著について、なにやら解ったような素人解説をする気はない。大して知識もないのに知ったかぶりをして恥をかく「若気の至り」を繰り返してきたヲジさんは、年齢相応に慎重に(これを「円熟」というべきか)なっているのだよ。

 アーレントは人間の活動力を、生命を維持するための、私的領域に属する「労働」、世界に働きかけて恒久的使用の対象たる工作物を作る「仕事」、そして公的領域において言葉と行為によって自己の実現を図る「活動」の三つに分類する。そして、近代になって、本来は私的領域で営まれ、「活動」の経済的基盤を形成していた(別の言い方をすれば公的領域には現れなかった)「労働」が人間の社会的活動の中心となることによって、ギリシャ~ローマ以来の、ヨーロッパの伝統であった公的領域と私的領域との弁別が為されなくなり、理想や哲学を語る公的領域が失われてしまった過程を辿る。その結果もたらされたのが私的領域の無際限な拡大である(かつては家政つまり私的領域の問題であった「経済問題」が政治の最大の関心事となったのはその一例である)。「人間―労働する動物」が世界を席巻した結果登場したものは何か。かつて言葉―行為によって他者との差異化を志向した人間は、それに優先する価値「労働」によって画一化の波に呑込まれ、かつて世界の中での人間の生活の条件を成した恒久的使用物(職人的製作物)は、労働―生産のメカニズムの要請に随って単なる消費の対象となる。そう、一般に「大衆社会」「消費社会」と呼ばれるものの登場である。

 幼少の頃、両親とも労働組合運動に熱心な家庭(つまりは「アカ」の家。居間に置いてある新聞はもちろん『赤旗』であった)に育った私は、いつの間にか「労働者は正義である」みたいに思い込んだ少年となった。その後いろいろあって、すっかりヒネクレた青年に成長したが、ヒネクレたついでに怠け者でもある私は「労働」が嫌いで、そのため長々と、人の倍ほど大学に通っていた(本気で受取らないように)。その間何となく、「尊い」はずの「労働」が「退屈」「苦痛」という語彙と観念連合を形成することが多いのはなぜか、尊い行為をしているのだから、そこに「悦び」「自己実現」を見出すのが自然だと思えるのに、そういう人が必ずしも多くないのは何故か、などと、いかにも怠け者が自己正当化のために思いつきそうな疑問を抱いていた。以前、それに対する解答の一端をM.ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』が与えてくれたが、『人間の条件』はそれに続いていくつもの示唆を与えてくれた。

 もちろん、年来の(?)疑問について様々に考えるネタを得られただけではない。他者との差異化が目的ではなくなった人間の社会的活動がどういう事態をもたらすか。あるいは人間の生存・生活の条件を規定していた世界が無際限な消費の対象となったことが何を暗示するか。わたしたちの存在を規定する「近代」という時代を考えるのに、非常に刺激的な視点を用意してくれる書物である。

 そしてもう一つ印象的、というかスリリングだったのは、(上述の内容と密接に関連するが)近代という時代のもう一つの特徴としての「世界疎外」の考察である。デカルト、ガリレイ以来の近代科学の発展がもたらしたのは、人間は永遠に世界を理解することなどできないのではないかという根本的な疑問、この逆説的で皮肉な結果であった。この問題について、ガリレイの望遠鏡が「アルキメデスの点」(つまりは本来「地球―世界」の中の存在であるはずの人間が「地球―世界」を対象化し、外部から捉える視点)を用意したこと、それによって地球上の自然状態では絶対に起こりえない現象を実現する技術の登場を呼んだことなどを語りながら考察してゆくのだが、そのダイナミックな展開はなかなか読み応えがある。

 翻訳者志水速雄の解説によれば、本書は「難解」とされるとあるが、私はさして「難解」とも思わなかった。文庫本で500頁くらいあるので、通読するのに1週間ほどかかったが、退屈することもなく、一気に読破できた。これは志水訳が非常に優れていることが大きいだろう。やはり外国ものは翻訳が重要である。自分が原書を読めるように外国語を勉強すればよいという意見もあるが、そこはそれ、ヲジサンは怠け者なので。

 以上が十数年前に書いた作文である。念のために一言しておけば、私自身は「アカ」ではない。今まで観た中で一番好きなアニメ作品が『宇宙海賊キャプテン・ハーロック』なので、あるいはもっと危険な思想の持ち主かもしれないが。