ユリア・エブナー『ゴーイング・ダーク』西川美樹訳(2021年)

 副題に「12の過激主義組織潜入ルポ」とあるように、過激主義組織を監視し、彼らへの対処法を研究・アドヴァイスする研究所に所属する著者が、ネオナチ、白人至上主義者、極右、ジハーディスト(イスラム聖戦主義者)、陰謀論者、女性による反フェミニズム団体などの組織に身分を偽って潜入し、彼らの手口――どのように他者を取り込み組織するか、どのような手段を用いて自らの主張を拡散させるか、敵視する個人や団体をどうやって攻撃するか、など――を分析するルポルタージュである。それにしても、こんな言い方をするとフェミニズム論者に叱られてしまうかもしれないが、女性の身でありながら、しかも場合によっては本人のみならず周囲の人々も様々な攻撃の標的にされる可能性もあるのに、そのようなアブない組織に単身乗りこんで隠密調査をするとは、いくら仕事とはいえその勇気と覚悟に感服するばかりである。私のような惰弱な人間には及びもつかないことというしかない(もちろんこのような調査方法の正当性については議論の分かれるところであろうが。著者も「あとがき」のなかでその点の葛藤について触れている)。

 内容は全7パートで構成されているが、第1パートから第6パートまでが「潜入ルポ」で、各パート毎に2つの組織が取り上げられていて、計「12の過激組織」ということになる。パート1から順番に「新人勧誘」「社会化」「コミュニケーション」「ネットワーキング」「動員」「攻撃」というタイトルが付いていて、この並びを見ればわかるように、順番に読んでゆくことで、これら過激主義組織の手口の全体像(もちろんすべての組織がまったく同一ということではない)が見えてくるという仕掛である。

 この著作を読みながら、私がふと思い出したのは2020年に東京大学が入学試験の本文として出題した小坂井敏晶『神の亡霊』の一節である。この文章で筆者小坂井氏は機会均等の自由競争に基づく能力主義が実は社会的格差を固定化する「出来レース」に過ぎないこと、能力主義が前提とする自律的主体の自己責任論には根拠がなく、格差を正当化する機能を果たしていることを指摘した上でこう言う。

 「身分制が打倒されて近代になり、不平等が緩和されたにもかかわらず、さらなる平等化の必要が叫ばれるのは何故か。人間は常に他者と自分を比較しながら生きる。そして比較は必然的に優劣をつける。民主主義社会では人間に本質的な差異はないとされる。だからこそ人はお互いに比べあい、小さな格差に悩む。そして自らの劣等性を否認するために、社会の不公平を糾弾する。(外部〉(=人間の人格や才能を決定する遺伝的要素や社会環境:引用者注)を消し去り、優劣の根拠を個人の〈内部〉に押し込めようと謀る時、必然的に起こる防衛反応だ。」「自由に選択した人生だから自己責任が問われるのではない。逆だ。格差を正当化する必要があるから、人間は自由だと社会が宣言する。努力しない者の不幸は自業自得だと宣告する。近代は人間に自由と平等をもたらしたのではない。不平等を隠蔽し、正当化する論理が変わっただけだ。」

 どのような社会にも格差は存在するだろう。その格差の原因を、社会システムを統御する上位構造(価値観)にまで遡及して考えることができない場合、私たちの多くは自己の社会的立場について、それを自己の才能のなさや努力不足(あるいは最近の若者言葉の「親ガチャ」に象徴されるように不可避の運命)として心中の不満や不安と折り合いをつけて生きてゆくのだが、その不満(不安)は、例えば本書『ゴーイング・ダーク』パート2で紹介される反フェミニズムの女性団体に惹かれてゆく女性たちのように自己否定に向かう場合もあるだろうし、逆に他に紹介されている多数の組織の人物のように、目に付くところにいる「異者」――移民、有色人種、女性、LGBT、既得権益層(エスタブリッシュメント)など――に対する憎悪に転化する場合もあるだろう。また根拠のない陰謀論に取り憑かれる場合もあるだろう(それにしても『シオンの賢者の議定書』や「フリーメイソン」、「イルミナティ」、最近では「ディープステート」などの陰謀論は、キリスト教の「予定説」のタチの悪いパロディに思えてならない。世界が超越的存在の計画に従って動いているという点、そして論理的証明もできなければ反証もできないという点で両者はよく似ている)。『ゴーイング・ダーク』はそのような人々が特段に変わった人物というわけでもなく、むしろ私たちもちょっとしたきっかけで過激主義に取り込まれてしまう、あるいは知らないうちに協力してしまう可能性があることも教えてくれる。特に最終パート「未来は暗いか」第13章「最初はすべてうまくいっていた」は読み応えがあった。例えばフェイスブックやツイッターなどのSNSプラットフォームは、当初の目的としては人々を「繋げる」ことをその目的(機能)としていたわけだが、過激主義組織に利用されたことで逆に人々を分断してしまう結果をもたらしたこと、事態の重大さに気づいたSNSプラットフォームはAIテクノロジーを用いて不適切なコンテンツを削除しているが、そのAIテクノロジーも「完璧にはほど遠いものだ。ヘイトスピーチや過激思想は文脈から判断するほかないものも少なくないため、AIもなかなか特定できない。有害なコンテンツが、それを報じるBBCのレポーターによってシェアされたり、それと闘う活動家によって、あるいはそれを揶揄する風刺家によってシェアされたりしても、機械にはおそらく見当もつかない。場合によっては、侮辱や脅迫の言葉でも、誰かを標的としたものではなく自分自身に向けられたものということもありうる」(359頁)。つまり今あなたがお読みになっているこの駄文も、用いられている語彙を考えれば、AIによって「不適切なコンテンツ」と判定される可能性があり、またそうでなくともこのようなことを話題にするだけで(あるいはそういう記事にアクセスするだけで)、過激主義の宣伝となってしまう可能性もある。そして言うまでもなく、AIなどによる記事のチェックが過剰な検閲を導いてしまう恐れもある(すでに強権的支配を事とする国では行なわれているようだ。どことは言わないが)。

 最後の2章は今後予想される過激主義団体の動きと、それに対処する方策が提案されているが、その当否について私には判断できない(これは誰でもそうだろうが)。とりあえず現代の社会を考える上で、非常に参考になる一冊であった。